ハンドレッドな生活

自分の可能性を広げよう

私は「暮らしをつくる」というテーマで衣食住を手作りしていく生活を送っています。

そんな私が目指しているのが、『百姓(ひゃくしょう)』的なライフスタイル。

これは単純に「畑で野菜をつくっている人」とか「自給自足している人」みたいな話ではないのです。

私の生活は、

家庭菜園をしたり、
発酵食をつくったり、
生ごみコンポストをつくったり、
布をつくったり、
陶器をつくったり、
家をつくったり、
会社を経営したり。

「暮らし」に関わるいろんなことをしています。

そんなまとまらない私の暮らしを表現するために

「百姓」

つまり、ハンドレッドという言葉を使っています。

このようなライフスタイルを探求していくために立ち上げたのが、ハンドレッドアカデミーなのです。


それは、1つの枠に縛られず、自分の可能性を無限に広げていく。

そんな生き方であり、ライフスタイルなのです。

百のしごとをする

「あなたは何をしている人ですか?」とか、「ご職業はなんですか?」

などと聞かれた場合、

「医者です」「運転手です」 「〇〇の会社の営業職です」

など、普通は明確に自分を説明できる肩書きのようなものがあると思います。

でも、私の場合、一言で自分を説明できる言葉がなかなかありません。

何故かと言いますと私たち夫婦が毎日取り組んでいることはすべて生きるうえで極めて大切なものでして、どれも「自分たちのしごと」だと思っているからです。

野菜を育てる
発酵させる
料理する
有機物を土に還す
手仕事をする
家をつくる
商いをする

これらは大半が直接お金になるものではありません。

しかし、「暮らしの糧」を得ているという点では全てが大切なしごとですし、私は誇りを持っています。

かつての日本では、それぞれの職業に分かれつつも、生活の基盤として畑で野菜を育てながら、季節や状況にあわせて漁に出たり、縄を編んだり、布を織ったりしていたそうです。


実際、私たちが20代の頃に訪ねたインドネシアの人々は、現代でもそのような暮らしを送っていました。


個人が幅広く何でもこなせることでお互いに支え合うことが出来て、そのように暮らしが成り立っていたのです。


これは、『人』や『職』の壁を曖昧にして、ゆるく混ざり合いながら暮らしを創っていく日本的、アジア的なライフスタイルかもしれません。

可能性を広げる

百姓的なライフスタイルは、分業化・専門化が進んでいる現代日本とは少し視点の違う生き方です。


何故なら、現代では

『特定の分野については詳しい。だけど、他のことはよく知らない』

『だから、自分に出来ないことは全てお金を払って解決する』

という生活が一般的であるからです。


この生活様式は、仕事の効率が上がり経済が発展するというメリットがある一方で、

『お金が無ければ生きられない』

というデメリットもあります。



もしかしたら、ここに私たちが抱える不安が集約しているのではないかと思うのです。


病気になる、怪我をする、仕事が無くなる、お金が無くなる

そうしたときに、生きるための糧がなくなってしまう。


『私の職業は〇〇で、それ以外はわからない』という『一』に縛られた自分から、

『百』の可能性を持つ自分へと成長していきたいと、そう私たちは思っています。


百姓的なライフスタイルは、そのような不安やリスクに対しての『創造的な解決策』になると私たちは考えています。

毎日が楽しくなる

私たちがこのような生活を始めてから一番思うのは、とにかく毎日が新しい発見で溢れていて、とても楽しいということ。

暮らしそのものが学びであり、遊びでもあり、アートでもある、そんな毎日です。

とくに私たちはフォレストガーデンという野菜やハーブが生い茂るガーデンをつくっているのですが、毎年様子が変わります。

野菜とハーブのガーデン

ガーデンで暮らす生き物たちを観察するのはとても楽しい時間です。

最近は可愛いミツバチがたくさん来てくれるのでとてもハッピーです。


このような生活では支出がぐんと減るので、自分を犠牲にしてまで労働しなくても大丈夫になりました。

どんな形でもいいから、自分たちでゼロから生み出せるということが、何よりの強みだと思うのです。

床の張り替え。ひとまず、やってみる。
大抵なんとかなる。

そんな私ですが、

「原始的な生活に戻りたい」とか
「完全自給自足で、社会から離れたい」

とか、そんなふうには全然思っていません。

お金をたくさん稼いだり、効率的に生きたり、そういうことは苦手な私ですが、

ちゃんと社会の中で生きて、人の役に立ちたいと強く願っています。


現在の社会や経済も大切にしたいし、自分も大切にしたいし、家族も大切にしたい。

そんな暮らしを実現出来ないか模索していくのが、私なりの「百姓」というライフスタイルなのです。